2008年11月のお勧め禅語
平常心是道(びょうじょうしんぜどう)
禅の世界では、「びょうじょうしん」と読むことが多いようです。
中国の古き時代に、南泉禅師のところに弟子入りを望んでいた趙州禅師が道を歩いていると、たまたま向こうからその南泉禅師がやってこられた。そこで、すかさず教えを乞うたということです。
趙州 「道とはどういうものですか」
南泉 「平常心是道」(ふだんの心が道だよ)
趙州 「平常心という道はどこにあるかと探し、つかむことはできますか」
南泉 「つかもうとすれば道からそれる」(道を自分の外に求めて探し廻れば道からはずれてしまう)
趙州 「道をつかもうと向かわなければ、どうして道を知りえますか」
南泉 「道は知と不知とに属せず。知識は錯誤であり、不知は虚無だ、もし真に疑いのない道に達っせば、大空の如くからりとしてわだかまりがない。ことさら是非など微塵もない」
その言葉の終わらぬうちに趙州はいっぺんに悟ったということです。
何事にも動じない、平坦な心が平常心ということではないようです。
そうでありたいと自分の心に無理を投じると、かえって曲がった方向へ進んでしまいがちになるといえるようです。
日々の毎日の暮らしの積み重ねを大事に、頭で考えてばかりでは、暮らしの良い習慣は身につきません。
そんな当たり前の日々を大切に育むことこそが平常心なのです。
趙州 「道とはどういうものですか」
南泉 「平常心是道」(ふだんの心が道だよ)
趙州 「平常心という道はどこにあるかと探し、つかむことはできますか」
南泉 「つかもうとすれば道からそれる」(道を自分の外に求めて探し廻れば道からはずれてしまう)
趙州 「道をつかもうと向かわなければ、どうして道を知りえますか」
南泉 「道は知と不知とに属せず。知識は錯誤であり、不知は虚無だ、もし真に疑いのない道に達っせば、大空の如くからりとしてわだかまりがない。ことさら是非など微塵もない」
その言葉の終わらぬうちに趙州はいっぺんに悟ったということです。
「禅宗では日常の生活がすべてそのまま仏道であると考えます。悟りというものは生活から離れたところにあるものではなく、日々の生活の中にこそあると考えます。」
すなわち、日々、私たちが生きている上での自然の流れ、そのあるがままの心が「平常心」ではないかということです。
すなわち、日々、私たちが生きている上での自然の流れ、そのあるがままの心が「平常心」ではないかということです。
何事にも動じない、平坦な心が平常心ということではないようです。
そうでありたいと自分の心に無理を投じると、かえって曲がった方向へ進んでしまいがちになるといえるようです。
自然界から多大なる恩恵を受けて暮らす毎日。
人はそれが当たり前になり、それ自体の素晴らしさを忘れ、理想を求めすぎた結果、不満タラタラの毎日を過ごしているのかもしれません。
人はそれが当たり前になり、それ自体の素晴らしさを忘れ、理想を求めすぎた結果、不満タラタラの毎日を過ごしているのかもしれません。
日々の毎日の暮らしの積み重ねを大事に、頭で考えてばかりでは、暮らしの良い習慣は身につきません。
そんな当たり前の日々を大切に育むことこそが平常心なのです。
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